【哲学】トロッコ問題から倫理学の世界を紹介
皆さんは哲学について興味はあるでしょうか?
そもそも哲学って何?みたいな人もいるでしょう。
今回はトロッコ問題を例に挙げて哲学の中でも倫理学の世界を皆さんに紹介したいと思います。
注意:トロッコ問題を扱う都合上、空想上の話とはいえ、人の命を扱います。苦手な方はブラウザバックを推奨します。
トロッコ問題とは
まず、皆さんに質問です。
現在、トロッコが暴走しています。
あなたの目の前には分岐器があります。
何もしなければ5人の作業員がトロッコにひかれて命を落とします。
もしあなたが分岐器を用いてトロッコの進路を変えると、5人の作業員を救うことができますが、切り替えた進路の先にいる1人の作業員が命を落とします。
さて、あなたならどうしますか?
とれる選択肢は2つ。
・分岐器を用いない。(5人の従業員が死ぬ)
・分岐器を用いる。(1人を犠牲にして5人の従業員を助ける)
おそらく、多くの人が分岐器を用いる選択肢を取ったはずです。
助かる人数が多い方を選ぶのは、至極全うだと思います。
ですが、これだけでトロッコ問題は終わりません。
2問目に行きましょう。
現在、トロッコが暴走しています。
あなたは線路の上に架けられた橋の上にいます。
あなたの目の前には体格の大きい人が立っています。
何もしなければ、5人の作業員がトロッコにひかれて命を落とします。
もし、あなたが目の前にいる体格の大きい人を線路に突き落とした場合、トロッコは確実に線路から脱線し、5人の作業員を助けることができます。
さて、あなたならどうしますか?
とれる選択肢は2つ。
・何もしない。(5人の従業員が死ぬ)
・目の前の人を突き落とす。(1人を犠牲にして5人の従業員を助ける)
どうでしょうか?
こちらの場合は多くの人が何もしないという選択を取ったと思います。
何か疑問に感じませんか?
1問目も、2問目も共に結果は同じです。
行動をすれば1人を犠牲にし、5人を助ける。
行動をしなければ、5人が亡くなる。
なぜ、結果ややっていることは根本的には同じなのに、場面によって選択が変わるのでしょうか。
そのヒントにベンサムの功利主義とカントの義務論という考え方があります。
ベンサムの功利主義について
功利主義の基本的な考え方は最大多数の最大幸福です。
つまり、結果を重視して最も多くの人間が最も多くの量の幸福を得られる選択をするのが正しいとするのが功利主義の考え方です。
結果のみを重視したのが功利主義なわけです。
今回のトロッコ問題においては功利主義のみを念頭に置いて選択をするとすれば1問目も2問目も行動をする(1人を犠牲にして5人を助ける)が正しい選択となります。
しかし、2問目では行動をしないと選択したのが大多数だったと思います。これは、功利主義では説明できない何かが働いているというわけですね。
カントの義務論について
義務論とは、その行為が普遍化できる行為であるかどうかが重要になります。
つまり、どんな状況でも自分の行う行為が認められるという行為でない限りしてはならないという考え方です。
例えば、人を殴るという行為は義務論の観点から観てしていいかという問題に対しては普遍化できる行為ではないため、認められないという答えになります。
もし、相手に侮辱されたような場面なら、殴ってもいいのだから、ケースバイケースでは?と思われる方がいるかもしれません。しかし、義務論はどんな状況でも認められる行為でない限りしてはならないため、特殊な状況などは考慮しないのです。
功利主義は結果のみに目を向けた考え方であるのに対し、義務論は過程のみに目を向けた考え方になります。
トロッコ問題を義務論の観点から見たときに、2問目は人を突き落とすという行為が普遍的に見るとどうなるかを考えることになります。勿論、考えるまでもなく認められません。そのため、義務論的な考え方に基づくと2問目は行動しないを選択するのが正しい選択となります。
まとめ
トロッコ問題を通して今回は功利主義と義務論の考え方について解説しました。
いかがだったでしょうか。
また、このトロッコ問題は自動車のAIの自動運転において考えられています。
AIの自動運転中、命の選択をしなければならない場面が来た場合、AIにどう判断させるように設計するべきでしょうか。
例えば橋の上で誰か人が飛び出してきたときに、ブレーキが間に合わず、それをかわすには橋から車ごと飛び降りるしかない場合は?
例えば、子供と大人なら?男性と女性なら?犬と猫なら?
このような命の優先順位のような問題は答えのでるようなものではないかもしれません。ですが、考えなくてはならないのです。
このようなときに、主観的ではなく客観的に判断する1つの手段として倫理学があるわけです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。